北・山の辺の道を歩く

2007.7.8 Yamaboushi
■日時:2007.6.29(金) 天気 曇 蒸暑し
■場所:奈良県 桜井市・天理市
     JR巻向駅〜山の辺の道〜JR天理駅(約10キロ)
■メンバー:シニア自然大学環境科18名

シニア自然大学環境科の皆さんと、山の辺の道の巻向から天理まで約10キロ、古代に思いを馳せながら、日本という形ができた黎明期の道を歩きました。

コースタイム:
(1)JR巻向駅1005→穴師相撲神社1035→穴師坐兵主神社1045→景行天皇陵1110→卑弥呼庵(1120〜昼〜1200)→祟神天皇陵1210→
(2)トレイルセンター1215(休)→長岳寺前1220→大和神社御旅所1230→念仏寺1235→衾田陵1240→五社神社1250→萱生環濠集落1255→
(3)夜都伎神社1320(休)→峠の茶屋1340(休)→内山永久寺跡1400→石上神宮(1415〜1435)→JR天理駅1510
Route Map1Route Map2

山の辺の道(額田王の歌碑と三輪山)
 「山の辺の道」は古代の市場・海石榴市(つばいち)(桜井)から三輪山、巻向山、竜王山の山裾を縫い、衾道、天理を経て平城山に至る約30キロの古代の道である。この道はヤマトタケルが「青垣 山隠れる 倭しうるわし」と詠んだように、青々と連なる山々は美しく、また畑中に続く古墳や集落の光景は古代日本の原風景さえ思い起こさせる。
 「山の辺」という言葉は記紀にも登場しているが、実は3世紀前半の卑弥呼が君臨した邪馬台国の時代にすでにこの道は山裾に存在し、その後の初期大和政権すなわち崇神王朝時代(祟神、垂仁、景行)には王権の拠点的ルートとして繁栄していたと考えらている。そのことを物語るように、奈良盆地東南部の「山の辺の道」沿いには、箸墓古墳(卑弥呼の墓説が有力)を先魁として、古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀初め)の巨大な前方後円墳が集中的に存在している。代表的な古墳としては、巻向古墳群(箸墓、ホケノ山)、柳本古墳群(景行天皇陵、祟神天皇陵ほか)、大和古墳群(衾田陵ほか)などで、いずれもわが国最古の巨大な前方後円墳(長さ200〜300メートル)である。
 またJR巻向駅近くを中心に広大な巻向遺跡の存在が確認され、最近の発掘成果とともに、ここが弥生末期から古墳時代前期にかけての邪馬台国の拠点ではなかったかとの説が一段と有力視され、われわれの好奇心を煽り立てる。

1.巻向から穴師あたり

 JR巻向駅を下りて東に向かう。R169を横切り、田んぼ道に出ると、金剛・葛城の山を背景に有名な箸墓古墳が望まれる。卑弥呼の墓ではないかといわれる全長280mの巨大な前方後円墳だが、ここからはその全貌を見ることはできない。

土蔵と大和棟の民家を縫うようにして穴師へと進む。

箸墓古墳は邪馬台国、卑弥呼の墓か?

大和棟の民家を縫って穴師へ

相撲神社(相撲発祥の地)
山の辺の道から少し外れて、穴師の相撲神社と坐兵主神社(いますひょうず)に立ち寄る。穴師とは砂鉄を採集・精製する技術者のことで、この地に精錬所や住居があったのであろう。穴師はミカンの発祥地であるという。沿道にはミカン園が多い。

オーナーの名前を吊りて青蜜柑   幸子


穴師坐兵主神社

巻向古墳群を眼下に見ながら(穴師の道)

農道(東海自然歩道)を行く
巻向古墳群を左手に見ながら農道(東海自然歩道)を北に進む.。大和盆地の彼方に、金剛、葛城、二上の山並みが広がる。ゆるくカーブするあたりに額田王の「三輪山をしかもかくすか・・・・・」の歌碑がある(トップ画像)。

2.景行天皇陵・祟神天皇陵あたり

 前方に景行天皇陵(渋谷向山古墳)が見えてくる。全長290mの大和最大の前方後円墳だが、山の辺の道からはその全貌を見ることができない。このあたりは柳本古墳群の密集地で、同天皇陵のほか、祟神天皇陵、黒塚古墳、さらに東にそびえる龍王山山麓に600を越える古墳や横穴が点在し、「死の谷」といわれている。

景行天皇陵(渋谷向山古墳)

卑弥呼庵で昼食、和風コーヒーでくつろぐ

祟神天皇陵(行燈山古墳)の濠端を行く
渋谷の集落に入るが、蒸し暑さに全身から吹き出る汗も乾かず、Y氏お勧めの喫茶「卑弥呼庵」の縁側で早昼飯とする。老夫婦の和風コーヒーのおもてなしに息を吹き返す。
しばらく行くと濠をめぐらせて祟神天皇陵(行燈山古墳)がある。全長240mの前方後円墳は、考古学者の間では祟神天皇陵ではなく、これからいく「衾田陵」がそうではないかといわれている。となると、この古墳は誰のもの?

天理トレイルセンターで休憩

長岳寺山門

大和神社御旅所
天理トレイルセンターで小休止し、長岳寺山門を通過する。これから山の辺の道の後半に入る。前半と異なり、古い集落と畑沿いの道が多いが、この一帯はいわゆる大和古墳群(おおやまとこふん)のメッカで、これら古墳群のほとんどは古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)のものと推定されている。

3.衾道を行く


引手の山(龍王山)を東に見ながら山の辺の道が続く
 天理市中山町から東北の丘陵地一帯を古代から衾田(ふすまだ)と呼び、古代王族の埋葬地であった。通る道を衾道(ふすまじ)と呼んだ。衾とは古代、神事などで使われた白い布のことで、貴族はこの衾で棺を覆い、引手の山(龍王山)へ向かったのであろう。人麻呂の、妻を亡くし悲しみにくれる歌、「衾道を引手の山に 妹置きて 山径を往けば 生けりともなし」が有名である。

柿ノ木の畑を衾田陵に向かう、正面龍王山

衾田陵(こちらが祟神天皇陵?)

萱生(かよう)環濠集落
大和神社(おおやまと)御旅所を過ぎて、念仏寺から山の辺の道を少し外れて、柿の畑を衾田陵へ向かう。大和古墳群最大の全長220mの前方後円墳は、「白香皇女衾田陵」と明記されているが、発掘された副葬品などから時代的に「祟神天皇陵」ではないかともいわれている。

夏草の匂ひをまとひ御陵道   幸子

山の辺の道に戻り、五社神社から萱生(かよう)環濠集落を通る。鎌倉から室町時代に造られた環濠集落は、外敵から集落を守るために外周を濠で堅めたものであるが、現在ではため池がその面影を残す。竹之内環濠集落を見送り、奈良春日神社ゆかりの萱葺き屋根の拝殿を持つ夜都伎神社(やつぎ)で休憩。
この神社から舗装道路の坂道を上り詰めたところにある観光農園「峠の茶屋」で再び休憩。休憩頻度が多くなる。竹林を下り本堂池に出る。平安時代に創建された内山永久寺の跡だが、法隆寺に匹敵した大規模な伽藍も、廃仏毀釈で跡形もく、案内板に往時の大和名所図絵があるだけ。明治政府の蛮行に唖然とさせられる。傍らに芭蕉の句碑がぽつんとある。「うち山やとざましらずの花ざかり」。

夜都伎(やつぎ)神社

峠の茶屋

芭蕉句碑(うち山やとざましらずの花ざかり)

4.石上神宮から天理

 永久寺から集落を抜け、布留口池の先の薄暗い樹林の道をでると、今日最後の石上(いそのかみ)神宮に入る。伊勢神宮とともにわが国最古の神宮といわれている。祭神は布都御魂(神剣)。物部氏の信仰が厚かったという。境内に入ると、なぜか、鶏が走りまわっている。人に慣れているのか、動じる風もない。明日は延命長寿を願う茅の輪くぐりが行われるという。

石上神宮本殿

石上神宮・茅の輪くぐり

天理教本部

うこっけい鳴きゐる宮の茅の輪かな     幸子

石上神宮から天理市街へ下る。天理教のはっぴを着た老若男女がアーケードを行き交う。天理駅から西大寺で途中下車、有志でガイドY氏の慰労会。店を出ると、外は雨となっていた。
*本文は環境科Y氏執筆の「山の辺の道ぶらぶら考」を一部引用させていただきました。また俳句はAさんから提供いただきました。

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