三田 昔の武庫川・今の武庫川を歩く

UP 2007.10.6 Yamaboushi
■日時:2007.9.8(土) 天気 晴れ 暑し
■行先:三田市 武庫川流域(下田中〜川除)
     地形図 2.5万三田
■参加者:33名
■主催:エコグループ・武庫川
武庫川は全長65km、7市1町(篠山市、能勢町、三田市、神戸市、西宮市、宝塚市、伊丹市、尼崎市)を流れる兵庫県有数の人口・資産を抱える2級河川である。今回は、エコグループ武庫川の主催するエコハイクに同行し、三田市内を流れる今の武庫川と、昔の川跡を訪ねました。

ルート
JR三田駅09:30→桑原欣勝寺→桑原感神社→鉄屋橋→昔の武庫川跡→旧三田市街→車屋橋→三輪明神→三輪明神窯史跡園(1210昼食1240)→川除の街道→御殿橋→武庫川堤→松山堤→天満神社→三田城址→JR三田駅15:45
Route Mapはここ

三田の歴史

7世紀後半創立の金心寺(こんしんじ)の門前町。金心寺恩田・悲田・敬田の「三福田」から「三田」になったという。南北朝時代に赤松氏、戦国時代に荒木氏、山崎氏の支配下になり、江戸時代に入り有馬氏、松平氏を経て、17世紀前半に九鬼氏が廃藩まで240年間統治した。丹波街道沿いの宿場町。
桑原・欣勝寺と感神社
JR三田駅南側空中デッキに集合したのは約30名。エコグループ・武庫川の代表であり、櫻守の会事務局長をつとめるI氏が自らガイドにたつ。福知山線の北側の山麓を東に向かう。
最初に訪れたのは桑原・欣勝寺。雷除けで有名。雷の子供が井戸に落ち、「助けてくれ」というのを、和尚は日頃から雷に迷惑をかけられているので、二度と桑原に雷を落とさないよう約束させて帰した。これ以降、「くわばらくわばら欣勝寺」といえば雷が落ちなくなったという伝承がある。

桑原欣勝寺

雷井戸

耕地整理記念碑
もともと武庫川沿いは湿地帯であり、明治40年代初めには、桑原地区でいちはやく「耕地整理」が行われ、美田に生まれ変わった。明治の地形図から、その様子が読み取れる。記念碑が門前にある。桑原感神社は京都八坂神社から分霊したと伝えられる桑原の氏神様。この神社の紋所は八坂神社と同じ「木瓜(もっこう)」紋。桑原ではきゅうりを食べると祟りがあるといわれ、食べなくなり、作りもしないという。

桑原感神社

木瓜の紋所

耕地整理された桑原の美田(現在)
2.下田中の旧武庫川跡
稲穂の垂れる美田を横切り、武庫川にかかる鉄屋橋をわたる。橋から流れを見ると、川底には有馬層群が露出している。水門で分岐された流れが旧武庫川である。かっての武庫川は三田盆地を大きく迂回しながら流れていたが、度重なる洪水の被害から守るため、昭和50年代に河道を直線化し、堤防も強化した。
休憩した下田中の神明寺・神明神社から、南の山麓に旧武庫川の水路が白く続いて見える。三田市の地図を見ると、風呂川と呼ぶようだ。山上には荒木村重の時代に山崎左馬之介の立石城があった。

鉄屋橋

旧武庫川跡は水路に

神明寺・神明神社。ここにも耕地整理記念碑が
三田本町通りから三輪明神
今の武庫川を遡上する。下田中橋から三田市街に入る。僅か1Km余りの武庫川に、市街を南北に結ぶ橋が実に多い。東から鉄屋橋、下田中橋(歩道橋)、R176に架かる広瀬橋、神鉄鉄橋、平成大橋、相生橋、高砂橋(歩道橋)、鍛冶屋橋、車瀬橋、三田大橋、武庫川大橋、御殿橋、川除下橋、川除上橋など。郊外を含めると20本を超えるのでは?三田の歴史は武庫川との戦いであったことが伺える。旧武庫川(風呂川)は神鉄鉄橋を暗渠で潜り、新武庫川に合流する。

旧武庫川は暗渠で神鉄を潜る

三田市街を流れる武庫川

鍛冶屋橋
本町通りに入る。旧丹波街道であり、古い商家が並んでいる。三田本町交流館、陶祖内神屋惣兵衛旧宅、札場の辻には「三田町道路元標」があり、かつては町の中心であった。三田で最も古い車瀬橋を渡る。「摂津名所図絵」には車瀬の蛍見がある。車の両輪のような瀬があったという。今の橋は昭和59年製。

三田本町交流館

三田で最も古い車瀬橋

一乗寺跡の万年橋
一乗寺跡に出る。かって一乗池があったこの辺りはよく切れる「正宗堤」があり、犠牲者を弔うために一乗寺が建立された。今は公園となり、一乗寺地蔵尊が祀られている。万年橋の欄干が残されている。北に伸びる石畳の道は三輪神社への参道である。お旅所は神輿の神幸するときの仮の奉安所。R176を渡って、石鳥居を潜る。その下に「三輪村道路元標」がある。三輪神社は14世紀前半の建武のころ、松山氏が茶臼山城を築き三輪一帯を治めたときに、大和の三輪神社に倣い創建したという。九鬼氏も深く崇敬した。

石畳の三輪神社参道

三輪神社の石鳥居

三輪神社
神社の横の坂道を上った裏手の山に、三輪明神窯史跡園がある。三田青磁などの三田焼きは、18世紀の半ばから三田の地で焼かれ始め、この明神窯では江戸時代後期から昭和10年頃まで焼かれていた。3号機まである登窯のうち、一号窯は県指定文化財。ガイドさんが常駐し、陶芸体験もできる。ここで弁当タイム。

第1号連房式登窯跡

窯跡を見下ろして弁当

陶芸体験室
4.川除あたり
明神窯史跡公園から裏山を通って三輪明神の境内へ下りる。参拝後は丹波街道沿いにある宮水へ。この湧き水はかつては飲料水として使われていた。炎天下の舗装の道を歩き、川除地区へ。川除公民館の敷地にある井戸は、16世紀半ばに赤松氏に追われた松山氏がこの井戸に隠れ難を逃れたが、その時井戸の中から黄金の仏像を拾い上げたことから、以降松山氏は「福井」姓に改姓したという。体力差で隊列が乱れ、最後尾が追いつくのを待ち合わせる。

明神の宮水

川除の井戸
再び福知山線を横断して、御殿橋(おとのばし)へ。もともと旧河川に架かっていたものを新武庫川へ付け替えたもの。もとは九鬼の殿様が川除の豪農福井家へ行かれるときだけ使った橋だったと言う。武庫川堤を上流に向かう。川除下橋を過ぎて川除上橋を渡る。池尻川、深田川の合流地点の記念碑は、昭和60年代に川除地区のショートカット工事など武庫川改修工事の完成を記している。藤ノ木橋を渡り、松山堤へ。

御殿橋

川除上橋、左から池尻川・深田川が合流

河川改修工事記念碑
武庫川の治水の祖は僧行基。松山堤は行基が築いた堤防である。松山氏が治めた松山荘からこの名が残る。今は三田黒石線の道路敷となっている。右岸の堤防を下り、三田市街方面へ歩く。農協市場館パスカル三田で小休止し、最後の行程へ。
5.天満神社から三田城址
天満神社は有馬郡の総鎮守、摂津名所図会は三田神祠として紹介している。九鬼家代々の祈祷所となる。春は花見で賑わう。有馬高校の中心に金心寺大伽藍があったが、荒木村重の乱で消失し、その後屋敷町に移転、明治2年に現在地に移転した。有馬高校内に礎石が残る。またここには荒木氏の居城があった。後、山崎氏の城(これは古城)。九鬼家移封のとき、二の丸があった。三田小学校付近に陣屋。隣の三田御池は金心寺の泉水。九鬼家の陣屋に隣接し、水軍の訓練をしていたという。

天満神社

金心寺の礎石のある有馬高校

三田城址(三田小学校)
九鬼家資料館に立ち寄る。三田藩家老職の住宅で、現在のものは、明治8年建築の擬洋風建築で、1階は和風、2階はベランダがあるなど洋風となっている。

九鬼家資料館

1F和風、2F洋風の建物

武庫川右岸を歩く(鍛冶屋橋)
再び三田本町通りに戻ってきた。鍛冶屋橋を渡り三田駅前で解散。暑さにもめげず約10Kmを歩きとおす。三田の歴史は、武庫川治水の歴史でもあることを学ぶ。
*本文はエコグループ武庫川作成の資料を参照させていただきました。

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