更新 2023.7.24/ 2010.6.14 やまぼうし
東六甲 譲葉山4峰
 ■日時:2010.6.1(火) 晴
 ■山名:譲葉山4峰
 ■場所:宝塚市 2.5万地形図 宝塚
 ■同行:
単独

譲葉山周辺地図(2013.1.20改定)

 我が家の裏山は東六甲の譲葉山系だが譲葉山とはどの峰を指すのだろうか。国土地理院の表記は現在は514Pにあるが、過去には526Pにあった。明治末期の陸軍測量地形図では北峰524Pを指している。また甲冑埋蔵伝説のある謎の山でもある。六甲縦走路を歩き探索してみた結果、4峰を確認した(Route Map参照)。以下、勝手に譲葉山東、南、西、北峰と呼ぶことにする。

六甲縦走路ゆずり葉台分岐(道標NO34)
「譲葉山東峰」514P
 まずは行者山北麓(370m)から縦走路(480m)へ登る。途中に岩倉山反射板と鉄塔#26への分岐がある。縦走路のゆずり葉台分岐道標NO34に出る。縦走路を西進するとすぐに左手にテープがありこれを辿ると譲葉山514Pに到着する。国土地理院ではこのピークを譲葉山514mと表記している。宝塚市測量図1/2500(平成10年作成)では標高512.9mとなっている。訪れるハイカーが多いのか、プレートがいくつかぶら下がっているが、526P(中峰)にあった標柱が松の木に縛り付けられていた。立ち木の中で展望は全くない。

譲葉山東峰(2010.6.1)  国土地理院表記
「譲葉山北峰」524P
 反対側(西)に下りるが踏跡は薄い。笹薮から縦走路に出る。こちらの取り付きには古い紐がぶら下がっている。縦走路を横切って西北西のヤブに入り込む。新しいテープを辿っていくと、こんもりしたところに磐座がある。天下泰平 文化14年丁丑(1817年)奉納と読める碑がある。こちらが譲葉山の元祖ではないだろうか。測量図では524.3mで、小山に立つと木立の間から、南に甲山や阪神平野、大阪湾を望むことができる。踏跡を北進すると赤子谷への分岐を分けて再び小山の上に出る。標高526.1mで、ここにも磐座がある。周りは立ち木で展望はないが、かつては北側の展望が開けたのかも知れない。名づけて譲葉山北峰とする。北進すれば赤子谷中央尾根に至る。郷土史研究家によればこの磐座は古墳ではないかといわれている。地形図をよく見ると前方後円墳の形をしており、六甲山の名の由来のひとつである甲冑埋蔵伝説(脚注)がある。

*明治末期の陸軍測量地形図1/20000は北峰を譲葉峰と記している。


譲葉山北峰磐座1(524m)

譲葉山北峰磐座2(526m)
「譲葉山中峰」528P
 縦走路に戻り、西進する。赤子谷右俣の道標を過ぎて、右に大きく回りこんだところから左手の山に取り付く。(*赤子谷道標の先に直登する踏跡あり(2013.1.8)。気をつけれて見ればテープがある。山を右に巻くように踏跡が続き、その途中から直登する。薄暗い林で、頂部がフラットなのでどこがピークかうろうろするが、プレートがぶら下がっている。ここには1991年製兵庫労山の標柱があったが前述のように「譲葉山 東峰」に持っていかれてしまって、土台の小石だけが残っている。526mといわれるが、測量図では528.1mである。立ち木の薄いところを狙ってエデンの園へ下る道の途中に出て、縦走路へ登り返す。

譲葉山中峰528m(2010.6.1)

同左(2001.4.1)
「譲葉山西峰」555P
 西進を続けて岩原山分岐に至る。道標NO33が立ち、ここは6叉路となっていて、岩原山、岩原山迂回路、赤子谷、譲葉西峰に至る道が縦走路と交わる。東に戻るように踏跡を登る。かなり明瞭な道が続く。やがて出たピークは立ち木が切り払われて明るいが、展望はない。譲葉山系の中で岩原山を除いて最高峰で標高は555.2m(測量図)である。譲葉山西峰と呼ぶことにする。この先東に踏跡を辿ればエデンの園へ下る縦走路分岐へいけるが、本日はやめてもとの6叉路へ戻る。

岩原山分岐(道標NO33)

譲葉山西峰555m(最高峰)
 岩原山より西、大谷乗越までにまだ2つのピークはあるが、一応ここまでとして、合計4つの譲葉山ピークを確認した。今は国土地理院の表記がある514P(東峰)を譲葉山としているが、昔は磐座のある北峰が譲葉山として信仰されていたのではないかと思われる。

ゆずり葉台 岩倉橋からのビュー
譲葉山伝説
六甲山の名の由来は諸説ありますが、甲冑埋蔵伝説の譲葉山もその一つです。『三韓征伐の帰り神功皇后(じんぐうこうごう)を迎え討つため兵を挙げて待ち構えていた異母兄弟の香坂王(かごさかのみこ)と押熊王(おしくまのみこ)。香坂王は戦勝を占うための「誓約」(うけい)の結果宝塚の亥の谷で赤い大猪に襲われ殺されてしまい、一方の押熊王は戦いに敗れて瀬田川に身を投げてしまう(中山寺埋葬)。香坂王の亡骸は殉死した5人の家臣らと甲冑とともに宝塚の譲墓岳(ユツリハカ岳)=譲葉山北峰に葬られます。譲墓岳は香坂王ら6人の甲冑が埋められたので六甲山(ムコ山)=武庫山と呼ばれ六甲山の名の由来となる。六甲山の旧名称には「弓弦羽嶽、譲葉山、譲墓岳」があり、天保12年(1841年)の古地図に譲墓岳の名がある。
 麓から見ると、譲葉山北峰(譲墓岳)は譲葉山系の稜線上に突起しており、人工的に手が加えられたような峰で、地形図をよく見ると等高線が前方後円墳の形をしている。枕の草子にある「ユズルハノ峰」は六甲山を指していると思われる一文があって、譲墓岳は過去において六甲山の主体とみられるほどの存在だったのではないか・・・』 (宝塚物語 いにしえの女神たちの物語 石原良二著 宝塚市立図書館所蔵より抜粋)

譲葉山北峰(JR中山寺マーケットスクエア中山寺屋上から)2017.4.22

前方後円墳の形をしている?
2015.2.4譲葉山4峰を巡回(Route map)
(行者山→縦走路NO.34→東峰→北峰1→北峰2→中峰→西峰→縦走路NO.33→細谷→ナダウラ堰堤→エデンの園)。手製のプレート類は撤去され、どこがピークなのかわからなくなっていた。国土地理院の地形図(新版)はこれら4峰を合わせて譲葉山と表記するように変更された(2017.6.4)

トップ表紙に戻る 

inserted by FC2 system