up 2011.6.1やまぼうし
西宮 仁川用水を歩く(仁川〜夙川)
仁川〜甲山〜北山貯水池〜北山緑化植物園〜銀水橋〜夙川
◇日時:2011.5.14(土) 晴れ
◇行先:西宮・仁川用水の探訪
     (阪急仁川駅〜甲山〜湯ノ口取水口〜北山貯水池〜夙川駅)
◇主催:武庫川エコハイク
◇参加者:70名
行程:
阪急仁川駅0900→山之井顕彰碑0925→上ヶ原分水樋0955→地すべり資料館(1010〜1040)→甲山自然の家1100→自然観察池(1200〜1230)→湯ノ口取水口1300→北山貯水池1340→北山緑化植物園(1400〜1430)→北山池1455→銀水橋1520→夙川駅1600
約16km
地図はこちら

阪急仁川駅付近から仁川上流を見る
「はじめに」
 仁川は六甲山頂近く石の宝殿の南側に源流を持ち、甲山の北側を通り、仁川渓谷を抜けて流れ、武庫川に注ぐ8kmの川。西宮の新田開発のため、甲山の西で丘陵を越えて夙川水系につながり西宮平野部の西の灌漑用水として利用され、甲山の東を回りこんで上ヶ原新田、門戸、神呪を潤し、さらにその下流では段上、上大市、下大市をも潤している。「社家郷用水」、「大井滝用水」、「山之井用水」です。武庫川エコハイクの皆さんと、その歴史の一端を訪ねながら歩きました。
「山之井用水」
 仁川駅に集合したのは約70名。ガイド氏から仁川の水について図示の説明を受けて出発する。大人数なので市街地では通行の邪魔にならないよう隊列を整える。中津浜線に出て、仁川橋を渡る。雨の後で、珍しく水が流れている。六甲山から押し出され、堆積した土砂の上を流れる天井川で、周囲の町並より10mぐらい高いところに河床がある。過去、氾濫に悩まされたことであろうことが推察される。

天井川:仁川を登る阪急電車
中津浜線から少し入った貝之助墓地の一角に「山之井顕彰碑」が立つ。フェンスの中で、文字が良く見えないが、文政年間、段上、大市地区の用水を仁川渓谷の中にトンネルを掘り取水した庄屋松山五郎右衛門の功績を称えたものである。山之井は現在西宮市上水道の水源である。

山之井顕彰碑
「上ヶ原用水」
 阪急電車の陸橋を渡り、住宅街を関学方面に向う。くすのき通りと言われているように、道路の中央に西宮の木であるクスノキの古木が立ち並び、中央分離帯をなしている。甲陵中学の前をとおり、関学キャンバスの東を抜けていく。モミジの緑が鮮やかである。構内の北東部に関西学院構内古墳がある。上ヶ原台地には多くの古墳が発見され、そのうちの1個が関学構内で発見された。古墳時代後期(6〜7世紀前半)のもので西宮指定文化財である。

関西学院構内古墳
 古墳の少し上を流れているのが上ヶ原用水で、ここに分水樋がある。江戸時代のはじめ、上ヶ原台地の新田開発のために仁川の水を利用すべく掘削されたもので、仁川渓谷の大井滝で取水され、岩盤に掘られたトンネルを通りここまで導水している。分水樋で3方面に分けられ、上ヶ原新田、門戸、神呪村を潤す。それぞれの村に、3尺6寸2分:5寸6分:6寸6分に分けられているのが興味を引く。昔の水争いの結果、このような取決めになったのであろう。

上ヶ原分水樋 左から3尺6寸2分:5寸6分:6寸6分に分けている
「地すべり資料館」
 上ヶ原用水路を遡り、百合野町の地すべり資料館に到着。時あたかも東日本大震災の直後だが、平成7(1995)年阪神淡路大震災の発生により仁川右岸の斜面で幅、長さともに約100m厚さ15mの地すべりが起きた。約10万m3の土砂が流れ出し、仁川を埋め、家屋13戸が流失、34名の方が亡くなった。原因は浄水場建設時、斜面が盛土で形成され、地層が下部で二重構造になっており、すべり面が隠れていたこと、地中に水分が多く含まれていたことなどが考えられている。今はこれらの対策が施され、斜面には一面に芝桜が植えられている。
資料館で30分休憩し、阪神大震災と砂防についてのビデオを視聴し、館内を見学する。館長さんはお話好きで、ゆっくり時間をとりたいが先を急がねばならない。

地すべり資料館

慰霊碑に手をあわせる

地すべり現場から仁川下流を見る
「仁川渓谷」
 仁川渓谷の大井滝取水口から岩盤をくりぬいて導水した用水は、渓谷出口で上ヶ原用水と山之井用水に分岐する。資料館前を流れるのは「上ヶ原用水」、裏の斜面下を仁川に沿うように流れるのが「山之井用水」である。仁川渓谷は立入り禁止看板があり、入り込むことはできなかったが、過日の写真を掲げる。

仁川渓谷大井滝取水口付近

岩盤を貫く水路

渓谷入口の分水堰 この先立入り禁止
「甲山」
 山道を登り甲山森林公園に入る。散策路が迷路のように入り組んでいるが、県民の森横から休憩所、北入口を経て西宮市甲山自然の家に向う。学習館のガイドさんから甲山の成因や地質などの説明を受ける。甲山はその形状からトロイデ型火山と思われるが、1200万年前に花崗岩を突き破って噴火してできた安山岩が長年の風化と侵食により削られ今の形になったもの。大阪湾と同じ地層があり、海底から隆起したことを裏付ける。甲山の北麓を回り、自然観察池で昼食タイムとする。

西宮自然の家で甲山の成因と地質を聞く

甲山森林公園休憩所からの甲山
「湯ノ口取水口」
 昼食後は仁川上流の盤滝口にある湯ノ口取水口に向う。最近改修され道幅も広くなった県道の側溝には、ここから取水した水が勢い良く流れ、あちこちに分水堰がある。車道は危険なので甲山高校の山すそを走る水路の上を歩き取水口に到着する。
 この水は社家郷(しゃけごう)用水と呼ばれ、寛永18年(1641年)に起きた旱魃の際、社家郷村(西宮神社を守る家々の意味:広田、越水、中村、西宮郷)の農民が、自分たちの持ち山である社家郷山から仁川の水を引こうという発想で生まれたもので、山を越えて夙川水系に取水しようとした。それまで仁川の水を利用していた下流の農民が工事を阻止しようとするのは当然のことで、昼、社家郷村の人々が水路工事をすると、夜ごと仁川下流の村人が水路を埋めるという繰り返しだったという。

 この難局面を打破するため、中村の庄屋であり、広田神社神官の中村紋左衛門が知恵をめぐらし、ある夜、般若の面を付けて水路近くの岩にじっと座っていると、壊しに来た仁川下流の人々は「天狗が出た」と見誤って一目散に逃げ帰り、以後、工事は妨害されず、2年を費やして「社家郷用水」は完成したという。近くに小天狗山という名の山があるが、この話に因んだもののようである。
この時、社家郷村が仁川の水を夙川水系に取水したおかげで現在も仁川上流の水は夙川水系の水分け谷に流れており、社家郷用水を貯める形で北山貯水池が出来た。北山貯水池の水は仁川の水を貯めているのである。

湯ノ口取水口へ水路上を歩く、遠方は社家郷山

湯ノ口取水口
「北山貯水池」
 往路を鷲林寺交差点まで戻り、夙川水系の観音川に沿って北山貯水池へ行く。北山貯水池は昭和43(1968)年完成の西宮市上水道の貯水池で5つのアースダムからなり、観音川、仁川の水を集め、北山および越水浄水場へ送水される。放水路は水分け谷を経て銀水橋付近で夙川上流に注ぐ。
ところが、現在西宮市は神戸市、芦屋市、西宮市、尼崎市の4市で設立した阪神水道企業団から琵琶湖・淀川水系の水の供給を受けることになり、北山貯水池の水は使われず、再び仁川に戻していると管理事務所職員のお話。なんともったいない話だ。

観音川を下る

北山貯水池と甲山
「北山緑化植物園」
 北山貯水池から山を越えて西宮市北山緑化植物園へ下る。水分け谷を夙川に下ってみたいが、この先は私有地が立て込んで通行できないとのこと。植物園で30分の休憩。今を盛りのシャクナゲを愛でる。足腰に自信のない方はここでバスでリタイア。健脚は北山池を経由して銀水橋へ下る。北山貯水池(北山ダム)と北山池は紛らわしいので後者を三つ池と呼ぶ。ため池が3つあるからである。

北山緑化植物園

西洋シャクナゲ

北山池(三つ池)
「夙川」
 三つ池から妙龍寺の北を回る遊歩道を歩き、銀水橋へ下りる。振り返る滝のゴツゴツした岩は崩壊防止用の擬岩(化粧コンクリート)で興ざめである。夙川の河床を苦楽園口に向う。一応ここで解散だが、多くの人がそのまま夙川駅まで歩く。ソメイヨシノも齢を重ね、再生運動の看板が目立つ。歩くこと7時間、16kmのハイキングであったが、西宮の水、特に仁川について多くを学ぶことができた。

銀水橋から上流

夙川を歩く

苦楽園口から夙川と甲山

記録作成に当たり「西宮の新田開発と用水の歴史」、「エコハイク武庫川」の資料を参考にさせていただきました。

トップ表紙に戻る 

inserted by FC2 system