up 2013.1.5やまぼうし
干支の山 丹波 蛇山(岩尾城跡)
下稲荷神社口〜258P〜蛇山(岩尾城跡)〜曲輪跡〜達磨岩〜上稲荷神社
日時:2013.1.3(水) 天気 晴時々曇
行先:丹波市 山南町 蛇山(岩尾城跡)(358m)
         1/25000地形図 丹波和田
同行:ハナミズキ
 干支の山、丹波市山南町和田地区にある蛇山(おろちやま)に登る。地元では城山(岩尾城跡)と呼ばれ、中世の石垣や曲輪が残る歴史の山として大切に保存されている。その名前とも似つかぬ穏やかな山容で、低山ながら展望も素晴らしい山でした。
交通:
宝塚0910→(若狭舞鶴道)→丹南篠山IC1010→(山南街道)→山南和田町1105

ルート:
薬草薬樹園P11:10・・・(和田商店街)・・・下稲荷登山口11:25・・・中継アンテナ11:55・・・蛇山(岩尾城跡)(12:45〜13:15)・・・人間地獄13:25・・・南曲輪跡13:45・・達磨岩14:00・・・上稲荷神社14:05・・・商店街下山14:15
地図はこちら

薬草薬樹公園からの蛇山(岩尾城跡)
「下稲荷登山口」
 R176は篠山の先、大山下で山南街道に入る。川代渓谷を下り、恐竜発見の道は谷川に続く。このあたりR175までの道がややこしい。迷走してようやく和田町に入る。駐車場を探して薬草薬樹公園に着くとあふれんばかりの車。干支の山歩きの車と思ったのは大間違い。山南町和田は丹波漢方の里で、公園のリフレッシュ館に「薬草の湯」があり、正月休みの入浴客で混雑していたのである。車を止めて山へ向かう人などいない。
旧道に沿った和田商店街を歩き登山口を探す。和田小学校裏、達磨岩口、下稲荷口があるようだが、町の東端の和田下バス停近くの下稲荷登山口から登ることとした。登山口で単独中年男性から呼び止められ駐車場を聞かれる。川西から来たというこの方は和田小学校から登られたようで、今日唯一山でお会いした人だった。
 登山口表示の下稲荷神社の赤い鳥居を潜って山に取りつく。岩尾城跡まで2.1kmとありカッコして(蛇山)と書かれている。登山路には道標が整備され迷うことはないが、すべて岩尾城跡と表記してあり、蛇山と書いた標識は見当たらなかった。いくつかの鳥居を過ぎて下稲荷大明神に着く。お稲荷さんに手を合わせて、進むと88ヶ所めぐりの石仏の道となる。猪除け柵を開けて人間世界におさらばする。

下稲荷登山口

下稲荷大明神山

88ヶ所石仏 猪除けゲートから入山 
「東尾根」
 コシダの群落を分けて高度を上げてていくとテレビ中継アンテナが見えてきた。地形図の258Pである。振り返ると、南に加古川の流れやイタリ山から石金山への稜線が見える。一息入れてさらに稜線をたどる。今度は、東に加古川を挟んで高見城から石戸山へ続く山並みが見える。やがて稜線は西に向く。北からの風が冷たい。北側は立ち木に遮られ展望はないが、南側は眼下に和田の町や駐車ポイントが見える。三つほどピークを越えただろうか、眼前に蛇山(岩尾城跡)が近づく。いかにも城跡らしい形をしている。

コシダの群落が続く

テレビ中継アンテナ(258P)

小さな岩場を登る 

石戸山方面

稜線を振り返る 遠方は妙見山
「蛇山(岩尾城跡)」
 一度下ったところで、和田小学校から登ってきた川西の方とすれ違う。登り返すと岩尾城跡のピーク(物見台)に出た。公園のベンチが置かれ、下方の広場に崩れた石垣に囲まれて天守台がある。青色の公園のベンチは山城の雰囲気を壊してしまうので一考を要するところだ。天守台からの展望は素晴らしい。北には写真のように加古川の流れを挟んで白山、五台山、向山、高見城山、石戸山が、南にはイタリ山から石金山が一望である。遅い昼食をとってから城跡をめぐる。二の丸には蛇山・岩尾城の縄張り図と歴史を書いた説明版がある。

岩尾城跡ピーク(物見台)から天守台

天守台

北の展望(左から白山、五台山、向山、高見城山、石戸山)
 西の丸横から下山路をたどる。こちらの登山道は階段などをつけて歩きやすい。すぐに若林・人間地獄の分岐がある。人間地獄という名称につられて荒れた山腹を回り込んで西に向かう。出てきたところは大きなすり鉢状のズリ場。山城の歴史と関係あるのかと思ったが、蟻地獄に見立てた命名であった。片スベリなのでちょっとがっかり。元の分岐に戻る途中炭焼き窯があり、傍らにこれぞ蛇山といわんばかりの巨大なトグロを発見する。

天守台

二の丸にある説明版

人間地獄と蛇山(岩尾城跡)
 
これぞ蛇山の正体!
「達磨岩」
 少し下ったところに堀井戸と堀切がある。300mの高さの井戸は珍しい。南向きの平坦な尾根道となり、下知殿丸曲輪(げちどのまるくるわ)、続いて南曲輪がある。正面に石金山を見て快適な山道が続く。親縁寺と和田小学校の分岐は親縁寺に向かう。あまり歩かれていないのか荒れた踏跡道である。急激に下った先にしめなわのある巨岩が現れる。麓から見えた達磨岩だ。ちょうど和田の町を見守るようである。下りたところが上町稲荷大明神で愛宕山大権現の灯篭もある。二手に分かれた右の道を下る。猪除け柵にぶつかる。さらにその下にも同じような柵がある。重いかんぬきを外すのに手こずり思わぬ時間をとってしまった。民家脇から商店街通りに降りてきた。登山口表示はない。分岐を左に取った方がよかったのかもしれない。
 
井戸跡
 
南曲輪跡
 
達磨岩
 
和田の町を見守る達磨岩
 
上稲荷大明神
 
二重の猪柵
 
商店街通りの下山口(正面は達磨岩)
 人通りのない商店街を駐車場に向かう。背後に連なる岩尾城山塊は、蛇山のイメージとは似つかない穏やかな山容である。相変わらず駐車場は満杯であった。時間があればひと風呂浴びたいところである。
 
薬草薬樹公園
<岩尾城跡の歴史>
戦国時代の永正13年(1516年)和田日向守斉頼(わだひゅうがのかみときより)3750石が築城する。天正7年(1579年)織田軍(明智光秀)の丹波攻めにより落城。豊臣秀吉の時代の天正14年(1586年)に佐野下総守栄有(さのしもうさのかみえうゆう)が再建する。慶長元年(1596年)、秀吉の城取り壊し命により廃城となる。和田氏が築いた中世戦国時代の山城(土塁使用)と佐野氏により改修された近世初頭の新しい城郭様式(石垣使用)が混在する城郭であり、日本城郭史上非常に貴重とされている。(説明板より)
<蛇山伝説>
和田日向守斉頼が築城の頃、殺害した養父の亡霊に とりつかれ、悪夢に悩まされて家臣を惨殺するなどの異変があり、家中にも不吉なことが次々起こっていた。その中で、夜な夜な出ていく家臣の妻を不審に思った夫が怪しんでそっと覗いてみると、蛇の子を産んでいたというおぞましい伝説がある(丹波誌)。一方で、蛇山北東に応地(おうち) という部落があり、この山をおうち山と呼んでいたが、なまってオロチ山になったのではとの説もあるようです。

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