up 2013.6.24やまぼうし
武庫川河口から西宮なぎさ街道を歩く
阪神武庫川駅〜武庫川河口〜鳴尾浜〜甲子園浜〜御前浜〜阪急夙川駅
◇日時:2013.6.8(土) 晴れ
◇行先:武庫川河口から西宮なぎさ街道
◇主催:エコグループ武庫川
◇参加者:47名

<甲子園浜を歩く>
行程:
阪神武庫川駅0930→武庫川河口1030→鳴尾浜臨海公園1105→鳴尾川1125→枝川1150→甲子園運動公園(1200〜昼〜1230)→今津砲台跡1310→今津灯台1325→今津六角堂1350→三河川合流1410→西宮砲台1440→夙川河口1455→(夙川オアシスロード)→阪急夙川駅1525      歩15km
地図はこちら

「武庫川河口へ」
 阪神武庫川駅は武庫川鉄橋上にある駅。西口に集合したのはスタッフ4名を含めて47名、高架を渡って武庫川右岸の松林でスタートのミーティングを行う。後には潮止堰があり、海水の遡上を抑えているが生物環境や治水上の問題がありいずれ撤去の予定である。一帯の松林も、河川敷の流路拡幅工事のため伐採予定の札が貼り付けてある。
河口に向かって歩く。南部橋から南は流路拡幅工事の一部が終わり、コンクリート矢板が埋め込まれている。歩くこと1時間で河口である。唯一の砂浜も岩のゴロゴロした狭い浜で、この先は大阪湾の入江である。

武庫川河原でスタートミーティング(後方に潮止堰)

伐採予定のクロマツ 

流路拡幅工事の進む武庫川(白い矢板まで拡幅)

武庫川河口(手前は唯一の砂浜)
「鳴尾浜」
 高速湾岸線の高架下を潜り、市民の森 鳴尾浜臨海公園で小休止。ここには阪神球団の野球練習場(鳴尾球場=甲子園球場と同じ広さ)がありまた白球の森として昭和58年第65回甲子園出場校のプレートと郷土ゆかりの樹が並んでいる。西宮南高校、高須西小学校横を通って鳴尾川に行きつく。釣り船の渡船場があるが、上流は行き止まりで暗渠となっている。対岸のリゾ鳴尾浜に行くには川を遡り大きく迂回しなければならず、橋がほしいところだ。

白球の森(第65回甲子園出場校名と郷土の樹)

市民の森シンボルマーク(都道府県の樹が表示)

鳴尾川(上流は行き止まりで暗渠)
メタセコイア並木の武庫川女子大学中学・高校の門前を通り、枝川にかかる。武庫川の氾濫でできた川も三面張りの細い水路となっている。両側の公団住宅は老朽化で建て替え工事が行われていた。

メタセコイア並木

武庫川女子大中学・高校(見学自由) 

枝川水路 
「甲子園浜」
 枝川浄化センターを左に見て、甲子園運動公園に入る。ここは鳴尾球場があったところで、「全国中等学校優勝野球大会開催の地」の記念碑が立ち優勝校の名前が刻まれている。発祥の地は豊中球場であるが、第3回(大正6年)から第9回まで鳴尾球場に移され、10回(大正13年)から阪神電鉄の経営する現在の甲子園球場になった。運動公園内の西端にある甲子園浜自然環境センターの木陰で昼食タイムとする。昼食後は自然環境センターのミニ水族館を見学して、2階から甲子園浜に下りる。甲子園浜は阪神間で唯一残された自然の砂浜・干潟・磯を有する貴重な浜で、国の鳥獣保護区になっており、野鳥観察のメッカでもある。浜にはサーフィン、洋凧を楽しむ人、潮干狩りをする人の姿が見える。

全国中等学校優勝野球大会開催の地

甲子園浜自然環境センター 

甲子園浜へ 

甲子園浜を行く
「今津」
 正面に六甲山を望みながら炎天の甲子園浜から今津浜を歩く。本日の行程の中間点である。今津砲台跡から今津灯台は入江を挟んで対岸にすぐ見えるが、鳴尾川同様に大きく回り込んで行きます。文化7年(1810年)灘五郷の酒の出荷港の今津港に酒造家長部長兵衛によって創建されたもので、燈明台とか高燈篭とは呼ばれ、外観もそのままに現役の灯台として使われている。正式名は「大関酒造今津灯台」で民営の灯台だそうです。

今津砲台跡碑から対岸に今津灯台を見る
 
今津灯台
 
今津大観楼跡
宝暦5年(1882年)今津の酒造家飯田圭山が開いた塾、郷学所「今津大観楼」(案内板だけ)を通る。大関酒造の大看板と酒造タンクが見えてきた。酒蔵通りに入ると、今津小学校があるが、六角堂は明治15年の校舎として建築された貴重なものである。小休止して大関直営の土産物店「関寿庵」でのどを潤したりおみやげ物を買う。

大関酒造

今津小学校の六角堂 

甘辛両党の店「関寿庵」でお土産タイム 
酒蔵通りを西に歩くと三河川合流地である。ニテコ池から流れる六湛寺川と甲山からの東川、百阡からの津門川が合流するが、いずれも河床の高さが異なるためしばしば洪水を起こしていた。難工事の末現在のようになった。六湛寺川に東長五郎橋、東川と津門川の合流地に西長五郎橋がかかる。

三河川合流地  左:六湛寺川、右:東川(左)と津門川合流
「御前浜」
 用海通りを西進する。交通量が多く、歩道の自転車専用道に気付かず通行者に迷惑をかける。白鹿記念館を過ぎて御前浜に出る。海岸線は昔は西宮神社前の前まであったのでこの名前が付くが、阪神電鉄が海水浴場を開設し、香櫨園浜と呼ばれるようになった。西宮砲台前で小休止。都警備のために慶応2年(1866年)に築いた砲台も、一度も使われず原型を残している。

西宮砲台

夙川河口
砂浜を歩いて夙川河口へ。オアシスロードを北上、香櫨園駅前で一次解散。阪急夙川駅まで歩く。GPSは歩行15kmを示していた。

夙川駅

―西宮なぎさ街道とは―

 創成期の西宮の海岸線の確かな資料は見当たりません。武庫川に面したあたりは、縄文時代頃の海岸線は現在の阪急線付近まで入り込んでいたと言われています。武庫川の河口もJR線の山手にあって、この河口一帯に武庫川の流れによって運ばれた砂礫(されき)と海から寄せられた砂で出来た大小数多くの洲が点在し、海岸一帯は遠浅の瀬になっていたようです。6世紀頃、小さな洲がまとまって里を形成し、河口も南下して現小松東町の付近に延び、小松崎と呼ばれました。このあたりから西が武庫(務古(むこ))の水門(みなと)と呼ばれ、大陸からの交易船の船着場になっていたと言われています。
 岡太(おかだ)神社から西に海岸が続いていました。そして海岸線は、八幡神社の東側を南に下っていましたが、そのあたりは「鳴尾崎」(旧本郷・現鳴尾町1〜4丁目)と呼ばれていました。そこから西南に向かい甲子園球場のあたりは、浅瀬となっており、ナカ洲に続いていたようです。16世紀以後、旧国道の南の新田開発が進み、さらに埋め立ても行われて、今日の海岸線が形成されました。
 また、中津より西にある今津ですが、その名前は、新しい津、今の津と言う意味であって、母村の津門の東から南にかけての海辺に生まれた地名であることがよく知られています。
その後武庫川のたびたびの氾濫や、夙川、御手洗川の流れが土砂を運び、土地が南、南へと広がりました。鎌倉時代の記録によればおよそ13世紀ごろ、現今津の中央部からやや東北部または北部において最初の村の形成が始まったと思われます。
 こうして形成されたこの西宮の臨海地区では、私達の先人が水害・高潮などの災害を克服して自然の環境を守った努力を忘れることは出来ないでしょう。このなぎさ街道には甲子園浜・香櫨園(こうろえん)浜があり、海辺の生きもの観察なども出来ます。
 また、西宮の発展に大きな影響を与えた御前(おまえ)の浜、西宮の旨酒(うまざけ)を生んだ酒蔵、日本一古い今津灯台、高校野球のメッカ甲子園球場の前身の鳴尾球場、西宮砲台、今津灯台など見どころが沢山あります。親子で歩いて楽しめるのではないでしょうか。(西宮市広報から)
記録作成に当たり「エコハイク武庫川」の資料および西宮市発行わが町ぶらりマップ「なぎさ街道」を参考にさせていただきました。
やまぼうし

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