1.東鶏冠山
旅順はもともと清国が築いた軍港であったが、日清戦争後日本の領土となった。しかし三国干渉の結果、ロシアが租借権を得て堅固な要塞を構築、日露戦争後、終戦まで日本が租借した。古来から、渤海、黄海をにらむ軍の要衝である。
行く手に丘陵地が広がる。日本人が○○富士と呼んだ山も見える。もう激戦のあった山々かも知れない。ガイド氏から注意があり、旅順港付近は撮影禁止区域である。たとえバスの中であっても、見つかれば厳罰に処せられるので守って頂きたいと。
旅順港の北東、100mほどの丘を登ったところが日露の激戦地のひとつ東鶏冠山であった。観光地となっているとは言え、入場には許可が必要だそうで、ガイド氏が手続きをしている。
山の頂上には立派な慰霊碑があり、「東鶏冠山北保塁」と彫られてあった。
写真は東鶏冠山記念碑 |
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2.日露戦争陳列館
日露戦争陳列館に入場する。薄暗い小さな記念館には、中央に旅順を取り巻く要塞の立体模型地図がおかれ、四方の壁には激戦の写真や日露両軍の将軍の顔写真が並ぶ。ガイドは政治色なしで、淡々と写真の説明をする。
旅順攻撃で膨大な犠牲者を出した第3軍司令官 乃木将軍は、軍人としての資質に疑問があると中国の評価だそうだ。それ以上に、日本軍がこれほど強固に造られたロシアの要塞を知らなかったのである。
パンフレットには、日露の両侵略国家が植民地主義の利欲に駆られ中国に対して残虐極まりない犯罪行為を犯した。戦跡はその証拠として、戦争狂人を永遠に歴史的恥辱の柱に磔にし、その悪名を後世に残すためだ・・・と。中国の歴史観に基づく徹底した反日教育を行っているのである。もう一度入口の看板を見ると、国防教育基地と書いてあった。
出口では、そんなことは関係ないとばかり、売り子が執拗に写真集を買えと迫ってくる。
写真は日露戦争陳列館で説明するガイド |
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3.ロシア堡塁
乃木将軍率いる日本陸軍第3軍は、ここ東鶏冠山を含む旅順要塞の正面突破を図るべく、5ヶ月にわたり第1次から第3次にわたる総攻撃を仕掛けた。しかし堅固なロシア堡塁と機関銃に阻まれ死体の山を築くばかりだった。それでも肉弾突撃を繰り返し、堡塁の中での白兵戦まで及んたが失敗に終わった。
記録によれば旅順攻略に延べ約13万人の兵が動員され、戦死者15,390名、戦傷者43,914名、計59,304名もの犠牲を出す悲劇的な戦いであった。
厚さ1mにもおよぶベトンで固められたロシア堡塁をまじかに見、直接触れることに驚愕をおぼえる。100年の歳月を経てもまだなお、強靭な要塞は堂々とした威容を残す。
写真は生々しい弾痕の残る外壁 |
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4.地下要塞
ガイド氏の説明によれば、旅順のロシアの要塞を築くのに使役に使われたのは、地元旅順の人々であった。完成したある日、祝賀パーティーだと偽って全員が船に乗せられ、沖合いで爆沈されたそうだ。軍事秘密漏洩を防ぐために。
被害者は常に中国人であった。
写真は白兵戦ともなった堡塁内部 |
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5.二〇三高地
ついで、バスは旅順北西の二〇三高地に向かう。3回に渡る正面突破の総攻撃に失敗し、当初からの海軍の要望を受け入れ、二〇三高地を攻めることになる。比較的守りが手薄な上、旅順港を眼下に治める格好のポイントだ。
更迭同然の乃木将軍に代わり、児玉源太郎が指揮する。旅順攻略の最後の激戦地となり、またまた屍の山を築いたが、28センチ砲の威力がついに敵を沈黙させた。
ここを見張り所として、海軍の巨砲が山越えに旅順港を攻撃、また正面でも堡塁直下まで坑道を掘り進め、東鶏冠山堡塁爆破に成功した。ついにロシアは戦意喪失し降伏に至ったわけである。
駐車場は中腹にあり、ここから先は標高差約60mのハイキングである。籠屋が待機して往復150元で送迎するという。何名かのお年寄りは乗ったようだが、我々一行は歩く。当時の禿山からは想像もできない緑の山となっている。一汗かいて山頂広場に立つ。
写真は二〇三高地からの旅順の街 |
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6.爾霊山
山頂には砲弾を溶解して建造したという砲弾型の記念碑がある。乃木将軍が二〇三高地にちなんで爾霊山と命名し、犠牲となった多くの将兵の鎮魂の碑とした。
眼下の旅順港は霞んで定かでないが、射程5KMの絶好のポイントには違いない。屍の山を築いた反対側の斜面は、何事もなかったように緑の草原が麓に続き、はるかに渤海湾が霞む。
100年前、祖国のために戦い、異国に散った戦死者に深甚なる哀悼の意を表せずには居られない。合掌。
写真は爾霊山記念碑 |
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7.タイガースタオル
広場にお土産売り場がある。二〇三記念の帽子を探したが売っていない。見れば売り子が赤や黄色の旅順二〇三のマークの入った帽子を被っている。
一番可愛い子の被る赤い帽子を、身振り手振りで売買交渉する。売り物ではないがお金になるならいいらしい。少しよれよれだが、なんぼ払おうかと財布を取り出すと、3.4人が私を取り巻き、財布を覗きこみ紙幣を指差す。ガイド氏から人前で財布を見せてはいけないと言われたことを思い出す。
結局30元と、プラス阪神タイガースの鉢巻タオルをサービスすることで折り合う。売り子には、日本人のお客に人気が出るよといったが、分かってもらえただろうか。
写真は阪神タイガースのタオルに喜ぶ売り子 |
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8.水師営
旅行の最終は水師営を訪ねる。水師営はロシア降伏後、乃木希典将軍とロシアの将軍ステッセルが会見を行った場所だ。小学唱歌「水師営の会見」に歌われているように、敵を称え、いたわる乃木将軍の人気は一気に上がる。戦後教育の私にはナツメロにも程遠いが、子供の頃祖母が口ずさんでいたことを思い出す。
当時の建物は既になく、庭には観光用に立て直された農家と、ステッセルが乃木にプレゼントした白馬を繋いだというナツメの木がある。農家の茅葺屋根には草が生い茂り、ガイドに出てきたご老人とよくマッチしている。
写真は会見所 |
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9.会見所
旅順攻略開始から約6ヶ月、会見は1905年(明治38年)1月5日である。
農家の中には2つの土間があり、一方には会見に使った机と壁にステッセルと乃木将軍の写真が1枚掛かっている。もう一方の部屋は壁に日露戦跡の数枚の写真がかかる。
日中戦争の生き証人のようなご老体が流暢な日本語で説明する。最後はやはり写真集の販売になる。
会見所前のレストランで最後の昼食を摂るが、テーブルに並ぶ料理に箸が進まない。今日は盛りだくさんの観光の上、山登りもしたし、皆さんお疲れだ。腹具合がおかしい。
バスは大連空港を目指す。
写真は会見の机と写真 |
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10.旅の終わりに
瀋陽から始まり、大連、旅順の旅が終わる。日清、日露戦争の勝利から満州国建設、日中戦争、そして敗戦の歴史の一部を見てきた。 それは、今思えば侵略の歴史かもしれないが、弱肉強食の時代、祖国を守り、列強に遅れまいとする日本の生き残りをかけた戦いの歴史でもあった。
弱者は侵略され、滅びる。
もし日清、日露戦争で日本が負けていたら、ロシアの属国と化していたかも知れない。また現在の中国、朝鮮も存在していないかもしれない。 祖国のために、異国に尊い命を捧げた人々に哀悼の意を表すると共に感謝の念を一層深くした旅であった。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。まだまだご紹介したいことがこの2倍はあるのですが、ひとまずこれで終わらせていただきます。 (2004,7.28〜7.31)
写真は瀋陽故宮でツアー一行 |
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11.下痢
中国旅行のこぼれ話をいくつかご紹介します。 旅行社のガイドブックには生水を飲まないように書いてある。出発時、500mlのペットボトルを二本詰め込み、後はホテルの無料ミネラルウォーターを使った。洗面所のミネラルウォーターは飲料水かどうか意見が分かれるところだが、飲んだ人が何でもないというので私も倣う。
果たして、原因は別として、初日の晩に相棒ともう一人が腹具合がおかしいと訴える。それでも飲んだり食ったりしているから大したことはないのだろう。
最終日の観光が終わった午後、それは突然やってきた。水師営のレストランのトイレに駆け込む。水が出ない・・・。移動のバス中でじっと我慢して、大連空港へ着くなり再び飛び込む。ペーパーがない・・・。機内食をパスする。2回服用した正露丸が効を奏したか、関空では何とか治まった。日露戦争必携の征露丸が、100年経った今でも効果甚大だ。しかし、二日後再発し、結局1週間苦しむことになった。
さて、帰国後メール交換してみると、帰宅後腹具合がおかしくなった人が続々現れる。結局、旅行中の2人と合わせて、7人が下痢、腹痛にあったことが分かった。中には今まで経験したこともないようなひどい人もいる。皆さん1週間程度で治まったようで良かったが・・・。
ネット情報を見ると、中国旅行者の7割の人が水、油で腹をこわすと書いてあるが、まさにその通りとなった。生水はもちろん、生野菜、生ジュース、包丁で切った果物など火を通さない食べ物は要注意だ。油は防ぎようがない。
旅行社はこの現実を知っているのだろうか。スケジュール通りの行動で、外食したわけではないし、生水も飲まなかった。それでも自己責任というだろう。
自分だけが被害にあったものと思い込み、女房から、あんたと一緒に海外旅行には行けないなど散々悪態をつかれた私だが、これでひと安心だ。
写真は水師営のレストランで、食が進まない面々 |
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12.中国語会話
中国語といえば、ニーハオ、謝謝、再見それにマージャンパイの数字しか分かりません。
旅行で迷子になっては困るので、中国語会話ブックを探す。書店には沢山あるが、100円ショップにも、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語などと共に中国語会話集が並んでいる。150ページ程度のポケット版で、入国からホテル、レストラン、買い物、交通など基本会話だけが載っている。わずか105円で手に入る優れものだ。
レストランで早速試す。ブックを広げて、「好吃(ハオチー)=おいしい」「我吃好了(ウォーチーハオラ)ごちそう様」といったら通じたようで、ウィトレスがにっこりする。
写真は105円の会話集 |
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13.お土産
海外旅行でのお土産には悩まされる。業者から送ってきたお土産カタログを見ると、中国の場合はお茶、天津甘栗、紹興酒、シルク製品が多い。チョコレートはどこの国でもある。
ツアーではトイレ休憩を兼ねて必ず土産物屋に立ち寄る。高い値段で買わされることは承知だが、つい衝動買いに走ってしまう。ブランド物は日本とあまり変わらない値段だ。
その中での優れものは瀋陽の玉石枕だ。2個5千円也に値切ったつもりだったが、次の土産物店では始めから1個2千円だった。きれいな色の丸い鉱石を並べたものだが、枕の上に敷くと、石が頭を軽く刺激し、ひんやりとして気持ちいい。寝苦しい夏にはぴったりである。旅行中からホテルで使う。
もうひとつ気に入ったのは、王朝のシンボル、龍(ドラゴン)のTシャツと、旅順二〇三高地の売り子の赤帽子である。ハナミズキ用に鳳凰のTシャツがないのが残念だった。
家族からは土産はいらないと言われたが、気は心で天津甘栗羊羹と瀋陽特産菓子とした。しめて1350元(約20000円)の買い物となった。 |
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14.玉石枕
前のコラムで優れものと紹介した瀋陽特産「玉石枕」であったが、夕べの寝苦しさに何回も寝返りを打つうちに糸が切れてばらばらに・・・。
1000個の石を繋いでいたのは頼りない細い糸だった。せめてたこ糸ぐらいの強度ならなら大丈夫だが。崩れた石を前に女房と顔を見合わせる。20日の命であった。メーカー名もない。
露店で買ったわけでもない。そういえば、帽子のサイズ調整のチャックも止まらない。まだまだこの国の製品は信用(瀋陽)が置けない。
写真は土産物屋に並ぶ枕 |
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15.中国の地図
旅行に出かけると、自分が今どこにいるのかを地図の上で確認しないと不安になる。旅行には必ず地図を用意する。中国の旅でも現地へ着いたら地図を買おうと思っていた。
瀋陽のバスの中で、ガイドから全員に瀋陽観光案内図が配布された。A3サイズの市街図は中国語でかなり正確に出来ているが、縮尺や緯度経度がないので距離感が分からない。東西南北の表示もないが常識的には上が北だろう。大連では町で市街図を買うが、こちらも縮尺がなく、山の高さも書いていない。
GPSを持参して、観光コースや観光ポイントを記録しているが、これでは対応出来ない。
帰国時大連空港でお土産に中国地図帳を買ったが、こちらも全国図には縮尺表示があるが、主要都市の市街図は何の表示もなかった。詳細な地図は軍事秘密なのかも知れない。
写真は大連の地図 |
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