up 2021.1.20やまぼうし
河内 飯盛山を歩く
四条畷〜北尾根〜飯盛山〜楠公寺〜七曲り〜野崎
◇日時:2021.2.10(水) 晴れ
◇山名:飯盛山(314.3m)
     2.5万地形図 生駒山
◇同行者:単独
歴史と展望の山、河内飯盛山を歩きました。四条畷神社から北尾根を登り七曲りコースを下るという最もポピュラーなコースでしたが、天気晴朗で京阪の街並みや京都西山・北摂・六甲の山々の展望が素晴らしかったです。ただ、1000段を超えるであろう急階段の連続に膝がガクガクでした。
行程:
四条畷駅11:10→四条畷神社11:32/11:42→(新道:北尾根コース)→飯盛山史蹟(12:38〜昼〜13:11)→飯盛山頂 13:25/13:35→NHKFM送信所13:40→楠公寺13:50→桜池14:00〜(七曲りコース)〜辻ノ新池14:19→水場14:37→野崎城址14:50→野崎観音(慈眼寺)15:05→野崎駅15:25
地図(GPS)はこちら

≪四条畷神社通りから飯盛山≫
「四条畷神社」
 天気晴朗、コロナも収束に向かっているようです。今まで取りこぼしていた河内飯盛山へ行ってみようと、一人リュックを担いで電車に飛び乗りました。四条畷駅は人影もまばらです。四条畷神社へまっすぐ伸びる道の向こうに飯盛山が見えます。南北に伸びる生駒山地の北の一角にあり、尾根筋に中世の飯盛城跡があることでハイカーが絶えることはないとのことです。大きな鳥居をくぐって石段を上がり、四条畷神社の境内に入ります。神社は明治23年(1890)創建と新しく、四條縄手の合戦で足利軍との戦いに敗れた楠木正成(くすのきまさしげ)の長男正行(まさつら)とその一族の将士24人を祀っています。境内には正成が湊川の決戦に向かうにあたり、櫻井の駅で正行に今世の別れを告げながら短刀を手渡す場面「櫻井の別れ」を表した父子像があります。刻まれている「忠孝両全」とは君主に忠義をつくすとともに親に孝行することをいいます。

四条畷神社

楠正成・正行父子 桜井の別れ
「北尾根」
 神社の横、貯水池の上に飯盛山登山口があります。直登道(旧登山道)もありますが、崩落危険表示があり新道(北尾根廻り)を行くことにしました。畑仕事姿の高齢の女性と山ガールが追い越していきました。あとでお聞きすると、高齢の女性は毎日登山している人で、山ガールは台湾出身の方であることが分かりました。階段が始まります。一人のボランティアの方が登山道の整備をしていました。ありがとうございますと挨拶を交わして進んでいくと、クスノキのアーチがお迎えです。自然のもののようですが、楠正行に関係して面白いです。山腹の道は尾根の北端に至り、御机神社からの道と合流します。標高130m、この先は飯盛山頂に向かって尾根歩きとなります。階段、階段の連続で踊り場もありません。最後は鎖に頼るほどの急登です。一気に数百段は登ったでしょうか。振り返ると木々の間から河内平野が覗きます。傾斜が緩んできても、上り下りは階段道です。

飯盛山登山口(60m)

新道を行く

クスノキのアーチでお迎え

御机神社からの道(左)と合流(130m)

数百段の階段
「飯盛山史蹟」
 飯盛山山頂へ出たと思ったら、手前のピークでした。標高は265m。縄張り図によれば、ここは二の丸史蹟碑郭で、飯盛山史蹟の板碑があります。碑文の判読が難しいですが、大正13年大阪府立四條畷中學校校友會によるもので、南北朝楠木正成・正行の戦いのこと、畠山氏が天文年間に築城したこと、永禄年間に三好長慶が城を拡張、織田信長の近畿統一により廃城となったことなどが書かれています。また立札には、この城に三好長慶(みよしよしなが)が1560年に君臨したとあります。
 素晴らしい展望です。大阪の高層ビル群から京阪の市街地、遠く六甲から北摂、京都西山、比叡山が一望です。白く光る帯は第二京阪道路です。この先の山頂に展望台がありますが、この場所が最も素晴らしいです。寝屋川から中年女性が登ってきました。石のテーブルで遅いお昼としました。

小ピーク(230m)から飯盛山を見る

二の丸史蹟碑郭(265m)

1570年三好長慶が君臨

大阪高層ビル群から京阪平野の展望 中央第2京阪道路
「飯盛城址」
 尾根を南下します。次のピーク285mには墳墓のようなところに登山300回記念碑が立っています。縄張り図によれば二の丸御体塚郭で、三好長慶が一時埋葬された場所のようです。本丸三本松郭から楠公寺への道を見送り階段を登っていくと本丸蔵屋敷郭で、西へ三好道(北条神社コース)が下っています。展望台が見えてきました。本丸展望台櫓で、数人のハイカーが休憩しています。屋上に上ってみました。展望図があり、アベノハルカスなど主な建物の名前が書いてあります。一段高い広場(314.3m)には飯盛城址の石碑と楠正行像が立っています。本丸高櫓郭です。

登山300回記念碑の立つ二の丸御体塚郭

三好道(北条神社コース)

展望台

飯盛山最高峰(314m) 本丸高櫓郭に立つ楠正行像
 隣のピーク(310m)は本丸千畳敷郭でNHKFM大阪の送信所がありました。ここまでは車が入ります。送信所まで行きましたが、楠公寺へ立ち寄りたいので車道を下ります。この先、虎口、南丸と城郭が続き、七曲りに下りることもできます。
 楠公寺は楠木正行をはじめ「四條縄手の戦い」の戦死者を弔うために開山した日蓮宗のこじんまりしたお寺です。元は飯盛山妙法寺であったのを昭和23年(1948年)に楠公寺に改名、その名付け親は、池田勇人大臣(故)とあります。飯盛城の馬場跡に建てられたようです。本コースで唯一、WCがありました。

NHKFM大阪送信所(本丸千畳敷郭) (310m)

正面NHKFM大阪送信所、左の道は楠公寺へ

飯盛山楠公寺(270m)
「七曲り」
 車道を下っていきます。大東市屋外活動センターの駐車場手前に、野崎観音(慈眼寺)への分岐があり、再び山歩きになります。標高は260m、見えてくる池は桜池ですが、尻池、南池とつながっています。遊歩道があり、東屋もありました。道は下り、辻ケ新池から七曲りにかかります。七曲りは下りの急階段ですが北尾根に比べると大したことはありません。廃屋が見えてくると舗装道路となり、水場があります。ここが野崎観音側の登山口(標高120m)です。七曲りコースは絵日笠コースともいうようです。飯盛山へは野崎観音から登った方が楽なことがわかりました。野崎観音の遊歩道へ進みます。

野崎観音(慈眼寺)へ道標を右折(260m)

桜池

七曲り

七曲りの道

廃屋が下山口 舗装道路になる(120m)
「野崎城址」
 道なりに下っていけば野崎観音まですぐですが、途中から分かれて野崎城址に立ち寄りました。15世紀頃の畠山氏の築城と考えられていますが、その後飯盛城の出城となったようです。標高は114mと低いですが京阪の街並みと六甲・北摂の山々が展望します。 野崎観音に向かって階段の遊歩道を下っていきます。郭と思われるところは休憩所・展望所になっています。石造九重層塔は永仁2年(1294年)とあり、礎石に74字の金石文があり北河内最古の層塔だそうです。沙弥入蓮(シャミニュウレン)と秦氏(大陸系渡来人)が、主君と両親の追善供養のために造立した旨が刻まれています。大東市指定文化財です。

舗装道路と別れて野崎観音へ

右手の階段を上ると野崎城址

野崎城址(114m)

郭跡は展望休憩所

石造九重層塔
「野崎観音(慈眼寺)」
 野崎観音の裏手、鐘楼から境内に入ります。野崎観音の正式名は「福聚山慈眼寺」といい、行基菩薩開山、十一面観音を本尊とする曹洞宗の禅寺です。意外にこじんまりとしたお寺です。浄瑠璃や歌舞伎、落語の舞台として登場しますが、東海林太郎が歌った「野崎小唄」で一躍有名になり、私の記憶にも残っています。歌詞の屋形船で参ろう〜とはどこの川を指すのか疑問に思っていましたが、大阪天満橋から寝屋川を遡って野崎駅の南まで来られたとのことですっきりしました。道を間違えて旧東高野街道へ下りてしまいました。山門前から駅に向かう野崎商店街でお土産を探しましたが、唯一お菓子屋さんの店先に「三好長慶」(どら焼き詰め合わせ)を見つけました。赤い欄干の野崎橋を渡ると野崎駅でした。

遊歩道から野崎観音俯瞰 意外にこじんまりとしている

野崎観音(慈眼寺)本堂

野崎観音(慈眼寺)山門

お土産は三好長慶

駅前 赤い欄干の野崎橋
四条畷神社、飯盛山城跡、野崎観音と歴史を訪ねる山歩きとなりました。階段の連続にはまいりましたが、もう一度歴史を勉強して、昔からある山道を歩いて見たいと思います。
◇◇◇◇◇
*飯盛城
飯盛山の山頂に四條畷市と大東市にまたがって存在する中世の山城。その規模は南北約700メートル・東西約400メートルあり、近畿地方では最大級のもの。南北朝14世紀半ばに築城され、天文年間に三好長慶によって拡張整備されたが、織田信長によって1576年落城、廃城となる。現在多くの曲輪や堀切・土橋といった場所が良好な状態で残っており「続日本100名城」のひとつに選定されている。飯盛城は、戦国時代に三好長慶(みよしながよし)が居城としたことで知られ、彼はこの城を拠点に五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)と四国の一帯を統治し、室町幕府の政治を動かした。

山頂掲示板より
*四条畷神社
南北朝時代、四條畷の合戦で足利軍との戦いに敗れた楠木正行(まさつら)とその一族の将士24人を祀る神社。主祭神は楠正行。明治23年(1890)に創建される。
*野崎観音
正式名は福聚山慈眼寺といい行基菩薩開山、十一面観音を本尊とする曹洞宗の禅寺。浄瑠璃や歌舞伎、落語の舞台として登場するが、昭和初期東海林太郎が歌った「野崎小唄」で一躍有名になる。江戸から昭和初期まで屋形船に乗って大阪天満橋の八軒屋浜から寝屋川をさかのぼり住道浜を経て野崎駅の南までお参りできた。
やまぼうし

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