up 2011.7.26やまぼうし
六甲 生瀬から蓬莱峡・座頭谷
生瀬〜ウィルキンソン炭酸鉱泉跡〜生瀬温泉跡〜有馬街道〜知るべ岩〜座頭谷
◇日時:2011.7.22(土) 曇
◇行先:西宮・生瀬〜知るべ岩〜座頭谷
     2.5万地形図 宝塚
◇案内:六甲山自然案内人の会 Fさん
◇同行者:5名
行程:
生瀬駅1000→ウィルキンソンタンサン鉱泉跡1020→生瀬配水池1040→(水路)→生瀬温泉跡1120→なかよし橋1145→知るべ岩1205→座頭谷川(1215〜昼〜1235)→砂防事業看板1245→(座頭谷)→4段堰堤1300→高位段丘層(1315〜1325)→(戻る)→知るべ岩1430→生瀬駅1520
地図はこちら

座頭谷の高位段丘層
 本日は生瀬周辺の自然や歴史にお詳しい六甲山自然案内人の会で自然観察指導員兵庫連絡会会員でもあるF女史の案内で生瀬駅から蓬莱峡座頭谷を探訪する。我が家の近くであり、よくハイキングするところであるのに歴史や自然環境については不勉強である。いい機会を得る。

―生瀬あたり―

 生瀬の地名の由来は滑瀬(なめりせ)からきているようだ。鎌倉時代創建の浄橋寺の荘園であった生瀬は、歴史的には有馬温泉への入湯路である有馬街道の要衝の地として発展してきた。大坂方面からの有馬温泉へのルートは、神崎を起点に武庫平野を北に進み、小浜から武庫川沿いに進み生瀬を経て、太多田川の河原を辿り、船坂を経て有馬温泉に至る。地質的には武庫川の氾濫原や段丘面の上にできた町である。

生瀬街道の妻入り住宅
 生瀬街道を宝塚方面に歩く。車はR176号をバイパスして通るから今は生活道路となっており、車のすれ違いもぎりぎりである。昔、武庫川の鮎弁当で繁昌した淡路屋の旧家屋はすでになくなり、駐車場の一部となってしまった。宿場町をしのばせる白壁の妻入住宅も、今は無人だそうである。浄橋寺の裏手から生瀬小学校を回り込み、なまぜの森公園に入る。
「ウィルキンソンタンサン鉱泉跡」
 「ウィルキンソン」といえば日本の炭酸飲料のブランドである。生瀬はその発祥の地である。「ウィルキンソン」ブランドの誕生は、1889年(明治22年)頃、クリフォード・ウィルキンソン氏が兵庫県有馬郡塩瀬村生瀬での狩猟の際、たまたま炭酸鉱泉を発見したことが始まりといわれている。氏は、この鉱泉をロンドンに送り分析させたところ上質な鉱泉であることが判明したことから、製造設備をイギリスから取り寄せ1890年(明治23年)より『仁王印ウォーター』として販売を開始した。その後1904年(明治37年)に「ザ・クリフォード ウィルキンソン タンサン ミネラルウォーター 有限会社」を設立、武庫川近くの生瀬山下の鉱泉へ工場を移転、『ウヰルキンソン タンサン』と命名してして発売を開始する。国内はもとより欧米・中国・東南アジアなど国外27カ国に販路を拡げる。1990年社業100年を以て閉鎖、商標を獲得したアサヒビールが明石工場で生産を継続し、現在に至る。

在りし日のウィルキンソンタンサン工場

現在マンションセルヴィオ
 なまぜの森公園の端に3本の鉄柱が立っているところがある。ここがタンサン泉源の井戸跡であると、Fさんが写真をみせてくれた(下)。何の表示もなく、言われて見なければわからない。武庫川を望むこの地に黒い屋根、白い壁、赤い柱のエキゾチックな建物があったことを思い出す。
 工場跡はマンションセルヴィオに生まれ変わり、建物の一部をウィルソン記念館として残している。「なまぜふれあい広場」として憩いの場所になっていて2階に工場建物のミニチュアと炭酸ビンが並んでいる。知ってか知らずか、この場所、地質的には活断層 有馬−高槻構造線の真上に当たる。

在りし日のウィルキンソン炭酸 泉源の井戸
(ウィルキンソンタンサン鉱泉(株)宝塚工場調査報告書・1996西宮市教委から)

泉源跡地

ウィルキンソン社の迎賓館であった場所(石垣)

現在のウィルキンソン記念館(ふれあい広場)

ミニチュアのウィルキンソン炭酸工場
「生瀬水路」
 生瀬の山麓に生瀬配水所があるが、今取り壊し作業中である。赤子谷川から取水しているがフッ素濃度が高く飲料水に適さないためという。実はこの水路は江戸時代から300年の歴史を持ち、宿場町生瀬の飲料水や生活用水として供給されたとのことです。水路が車道を横切り、城山の山すそを取り巻いて延々と続いている。水路に沿って遊歩道が整備されており、我々も水路を遡る。JR福知山線の城山トンネルの上を通り、熊ヶ谷川、赤子谷川と立体交差する。この山塊は1.5億年以上前の丹波層群であるという。

取り壊し作業中の生瀬配水所

水路を遡る

城山トンネル上から生瀬駅方面

城山トンネル上から名塩方面

城山を取り巻く水路

熊ヶ谷川を渡る水路

赤子谷川を渡る水路
「生瀬温泉跡」
 水路が赤子谷川と立体交差してしばらくのところに生瀬温泉跡があった。生瀬温泉は、明治29年に土地の有志が経営したが、僻地のため交通の便が悪く数年後に閉鎖したようです。記念碑の後には温泉の繁栄を願ったと思われる稲荷社が残っていました。赤子谷川を望むところには露天風呂を思わせるような石積みがあり、ホースまでついています。泉質は含炭酸食塩泉.で塩分を多く含んでいます。このあたり名塩、塩瀬、塩谷川、塩尾寺など塩のつく地名が多いですが、鉱泉が塩分を含んでいることと関係ありそうです。跡地は、荒れ果て寒々としていました。

生瀬温泉跡の碑

赤子谷川を望む露天風呂跡?

岩風呂
「太多田川」
 生瀬温泉跡から太多田川(おたたがわ)に下る。太多田川を堺に対岸(左岸)は有馬層群、手前は六甲花崗岩でその間を断層有馬高槻構造線が走る。有馬高槻構造線は丹波帯と領家帯の地質境界をなし、京都男山から北摂山地の南縁を通り太多田川に沿って有馬に至る総延長55kmの活断層である。最近では、1596年の慶長伏見の大地震を引き起こしたことが判明、高槻の地層にその痕跡が残る。目前の琴鳴山は有馬層群の凝灰岩の砕石場であり、無残な姿を晒している。河原の黒っぽい石は凝灰岩とのこと。

太多田川と千都橋

河原 黒っぽいのが凝灰岩

琴鳴山の砕石場

西宮市地質図から

―蓬莱峡座頭谷―

「知るべ岩」
 なかよし橋から県道宝塚・唐櫃線(旧有馬街道)を歩く。砕石場に出入りするダンプの往来激しく危険極まりない。約20分で知るべ岩バス停。その先を河原に降りると知るべ岩の碑があるが、急斜面をロープの助けを借りて下りなければならずパスする。「右ありま道」は秀吉の筆になるものといわれ一見の価値ある道標だが、手製の案内表示もわかりにくく訪れる人も少ないだろう。太多田川はここで座頭谷川を分ける。県道の土手に眼をやってみると、落石よけフェンスの内側に明確な花崗岩断層の露頭を見ることができる。

知るべ岩から曲がり橋、手前の橋は尼信山荘へ。

断層露頭 花崗岩
「座頭谷」
 芸術的な曲線を描く堰堤通称曲がり橋を渡る。座頭谷川上流に続く鎧積み堰堤は周囲の景観とマッチして美しい。下流の立派な架橋は尼崎信用金庫蓬莱峡山荘へ行くためのもの。このあたり、昭和15(1940)年〜25(1950)年蓬莱峡温泉(冷泉・炭酸泉)があったとのことでその名残だろうか。私有地のようでいつも立ち入り禁止だ。

 ナガモッコク尾根の山すそで昼食タイムとする。僅かの休息で出発。出発に先立ち、Fさんから蓬莱峡の形成過程について説明を受ける(画像参照)。すぐ上流の堰堤脇に兵庫県砂防事業発祥の地の案内板が立つ。太多田川上流では武庫川への土砂流出による氾濫防止のため、明治28年から砂防工事が行われてきており、自然石を積み上げた堰堤など砂防史上有数の構造物が今なお健在である。

鎧積み堰堤が続く座頭谷川

兵庫県砂防事業発祥の地
 4段の堰堤が見えてきた。3段目までは自然石の鎧積み堰堤である。鎧積み堰堤は昭和初期の技術であり、鎧のようなふくらみを作り落水が直接目地に当たらない工夫がなされている。最上段は阪神大震災後に建設されたコンクリート製であった。
堰堤脇の急階段を登って最上段に立つと、その内側は土石流で崩れ落ちた大小の石がゴロゴロ転がる広大な河原である。上流にはまだまだ沢山の堰堤があるが、座頭谷の土砂を受け止める最後の砦のようである。道はなくなり、土砂と岩石の転がる河原を足場のいいところを拾いながら遡る。流れは僅かである。行く手に座頭谷を囲むむき出しの切り立った岩壁が迫ってくる。

4段堰堤

花崗岩の土砂と石で埋まる4段堰堤の内側

座頭谷上流の岩塔群を望む
「高位段丘層」
 本日は座頭谷を詰めずに左岸(向って右)のれき層に向う。転がる岩に足をとられながら直下まで登る。長さ800m、高さ約45mの見事な段丘層で「上ケ平面」というそうです。中腹から上部はやや茶色がかって、これが高位段丘層といわれるもので未固結の柔らかい砂れき層です。この堆積面である崖の頂部の平らな地形が高位段丘面です。崖の中腹から下部は白っぽい風化した花こう岩です。風化が進んで粘土化し、硬い花こう岩の面影はほとんどありません。
 最下段の露出している白い部分は粘土鉱物といって、花崗岩の化学的変化で形成されたものだそうです。手にとって見るとシルクの感覚で、そのまま顔パックになりそうである。Fさんの説明が続きますが、くしゃみでもすると今にも土石流となって崩れ落ちてきそうで長居無用です。

*高位段丘層はこちらを見ると良く分かります。


高位段丘層(上ヶ平面)

花崗岩の化学的変化でできた粘土鉱物

<人と自然の博物館 先山徹先生の資料から>
 この先の岩塔(トア)の林立する座頭谷は次の機会として、元の道を下りる。色気のない座頭谷だが、知るべ岩近くの座頭谷川河原にノウゼンカズラを数本見つける。知るべ岩からバスの予定だったが30分待ちなので生瀬駅まで歩く。バッドランドといわれる蓬莱峡の地形のでき方を勉強しながらのハイキングでしたがまだまだ良く分からないことが一杯。しばらくは岩石にとりつかれそうだ。

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